評論とその他。

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卒論のアイデア、ボツ案その一

私が卒業論文で書いてみたいことは、芸術作品、あるいは視覚表象についての美学を中心とした議論である。そのさい、現段階で論述の中心に据えたいと思っているのが、ヴァルター・ベンヤミンの「複製技術時代の芸術作品」をはじめとしたいくつかのテキストである。ベンヤミンはかのテキストのある箇所で、映画が知覚に関する学としての美学(エステーティク)の対象になると述べていたわけだが、今回取り組みたいことも、映画が新たな知覚の形式を準備するような、諸メディアやメディウムによって人間の知覚が被るであろうさまざまな影響の考察である。じっさい、ベンヤミンのテキストは、美術批評の文脈においてはロザリンド・クラウスらがポストメディウム時代の芸術を論じる際の足がかりとなっていた。クラウスが検討するのは、マルセル・ルータースらメディア混交的な作品を制作する現代の芸術家たち、あるいは晩年のピカソマルセル・デュシャンあるいはシュルレアリズムといった、統一した像を結ぶことを拒否しているかのような、不安定な知覚と戯れている芸術家たちである。彼女が「視覚的無意識」と呼ぶ、ゲシュタルトを崩壊させる明滅するリズムやパルスの力能は、たしかに「複製技術論」における映画の「stossen」な衝撃と通底するものがあろう。ただ、ベンヤミンが映画によって新しい知覚の形式の練習を行いうるという言っていたこととは対照的に、クラウスは先にあげた諸芸術家たちの作品に、モダニズム的な視の主体をばらばらにさせてしまうような力能のみを読み取っている。ベンヤミンは映画に対して、知覚の統合が可能とする「経験」をいちど崩し、そののちに再度新たな様式のもと統合し続けるビジョンを描いていたと考えられようが、クラウスにおいては後者の知覚の再統合という目論見は退けられ、観るものを惑乱し、撹乱するパルスの運動にのみ議論の焦点が定められている。こうした点において、ベンヤミンとクラウスの視覚的無意識概念は「斜めに交わる」。

  さて、ベンヤミンの議論と現代美術をめぐる批評的言説のキアムスを論じる際に明らかにしておかなければならない点は、ベンヤミン以前の美学の言説や、クラウス以前のアートをめぐる言説であるように思われる。ベンヤミンは「経験」概念の自明性、あるいは芸術作品の自律性に懐疑と批判の目を向け、自身の芸術論を形成したいった契機をなぞるように、クラウスもまた「メディウム固有性」といった概念に下支えされた絵画の純粋性や自律性に論駁しながら自身の批評を形成していった。ベンヤミンのカントに対するアンビバレントな態度は、クラウスによるグリーンバーグに対する態度と通底しているような気がする。グリーンバーグが芸術作品を論じるにあたって理論的支柱としたのが(枠組みの読み違えなどはあるにせよ)カントの美学であることからも類推されるよう、クラウスが行った美術批評の現場にベンヤミンの議論を変形させながら帰納させてゆく作業は、カント–グリーンバーグ的な自律的な芸術作品を判断する枠組みに対する、異種混交的で断片の寄せ集めのようなそれを判断する枠組みを準備する作業として捉えられると考えられる

  マルセル・デュシャンは「絵画はクールベ以降網膜的なものになってしまった」と批判的に述べている。ある感官を徹底的に純化させてゆく「網膜的」な絵画鑑賞ではない、さまざまな感官が動員され、それらの組み合わせが解されてゆくような鑑賞の経験。本稿でとりくんでみたいのは、そうした芸術作品に対する鑑賞のありかたについての美学的言説の整理である。